良い教師選びのチェックポイント

 

どんな師匠、教師がよいか、との質問でそのチェックポイントを上げて見よう。

 

1:理路整然、頭脳明晰に話しをする人(例証を上げられる人、口が悪いのは関係なし。)


2:ディキシー、ビバップ、モダン、ファンキー、モード、フュージョン、ロック、ブルース、ボサノバ、エスニック、邦楽、童謡、民謡、クラシック、現代音楽、フリーからインプロヴィゼイション等、様々なジャンルのエッセンスを解説できる人、また自分自身はすべてやらなくとも分け隔てなく紹介する人。


(たった一時代の一つの音楽スタイルしか教えないのはおかしい。この教師からはさらに狭い音楽性を持つ生徒が大量に生産される事だろう。尚、流行音楽の紹介ではない。「普遍」のスタイルを持った音楽の紹介の事である。念のため。)

 

3:ドラッグ関係でない人、またはすすめない人。(漢方薬等とは区別)


4:特定の宗教勧誘をしない人(宗教にくわしい事とは別、念のため。ヨガ教室に行ったらいつのまにか新興宗教に入会していた、という時代があった。これが近年の宗教勧誘の手口である)


5:できない事はちゃんとできない、と言う人、又は、知らない事は知らないと言ってくれる人(知っている事に関しては教師である、という立場である。それよりも知らない事に興味を示す好奇心の人がよい)


6:プロ演奏家としてのバンド遍歴も豊富な人、優秀なサイドメンとなれる人(リーダーは、「狂気の人」なら誰でも客を呼べる。これは音楽「鑑賞」ではない。「見物」である。)


7:音楽を愛している人(様々な音楽を否定する人、ではない。それ以上に様々な素晴らしい音楽を紹介してくれる人)


8:一緒にいて、少しでも早くこの人から逃げ出したい、と思うほどの気持ち悪くない人


9:同業のプロ演奏家が「上手い」と認めている人(一番確かな情報である。プロであっても「あいつは下手くそだぞ!」と言われている者がいるので注意。プロにもピンからキリまでいる。)

 

以上、有名、無名問わず最低の条件。


実際の演奏で判別できればよいが、音楽初心者では3年は無理である。

まわりが絶賛している物に同調するのが関の山である。

楽器を弾いていて、何年経ても下手な者は、その「耳」がおかしいので、相手にしない方がよい。

単なる、権威主義者である。

自分でその音楽の善し悪しを判別する力は元から磨かれていない。

ワインの鑑定修行からでも始めたらよいだろう。

出会った「教師」でその後の音楽人生のすべてが決定される、という事を肝に命じておくとよい。

 

尚、以上の注意点は、パンク系の音楽を目指すミュージシャンには一切適応しない事を述べておく。


彼等に必要なのは、同世代の熱狂的な「ファン」である。

それがなければ、彼等の存在証明はすべて無くなってしまうからである。


その是非は問わない。


聴衆が、その演じ手よりも高い「次元」に位置してしまえば、もはやその演じ手は取るに足らない存在でしかなくなるのは世の常である。


かつて自身が熱狂した「アイドル」の成長度を見れば了解されるであろう。


彼、彼女は、常にそこに停滞し続け、かつてのファンは、時代の流れとともにそこからの分離を余儀無くされるのである。


稀(まれ)に、アイドルと共に停滞するファンがあり、また、そこから脱皮するアイドルも存在する事になる。

読書嫌いなアイドルには、読書嫌いなファンが群がる、と言う簡単な例えを参考にするとよい。


例外も当然ある。


しかし、それは、いずれかが「したたか」なのである。

 

念のため、「優秀なミュージシャンを見抜くチェック.ポイント」として、

 

1:品性、人格一切問わず

 

、、、を上げておく。

 

我(われ)、音楽を見て人を見ず ”

 

(ヤクザから作家へと転身した阿部譲二氏を見つけた随筆家、山本夏彦氏の弁、また、山本氏は作家、永井荷風を評して「美しければすべてよし」とその文章を讃え、人格を一切問わなかった事による)

良い教師選びとは

 

私の教室で、個人レッスン生を取る際は、一日最高2人までにしています。

教室は、隔週でそれ以外の週は、取っておりません。


曜日が既に他の生徒でふさがっている場合は、空いた曜日と時間帯に入会者の方で都合をつけてもらう事になります。


したがい、私の教室稼業は、「上限」のある商売ですのでこの「良い教師選びのチェックポント」は私に取ってさほど営利目的となりません。


先に上げたチェック.ポイントに従えば私以上の「教師」としてふさわしい人物は、全国津々浦々、どこにでも存在する事でしょう。


私自身は、かなりの部分を「教師」と言うよりも「ミュージシャン」側に置いている人間です。


したがい、私は、人格、品性を問われない側の人間でもあります。


つまり、十分にその「変態性」を有している、という自覚の上に自我を形成しています。


私が、犯罪をおかさないのは、そうした変態性をしっかりと意識下の自我に組み入れたからに外(ほか)なりません。


したがい、私は、それを抑圧し、ある日、突然、変貌する類いの「真面目な」教師、(あるいは「警察官」)では、ありません。


彼等は、それを単に「抑圧」しているため、何かのきっかけによって無意識の「変態性」に支配されてしまったにすぎません。


「教師」らしさを求めるあまり、自身の「変態性」を抑圧してしまったのです。


私は、いくつもの相反(あいはん)する「仮面」を被(かぶ)る事が可能です。


そうしたいくつもの「仮面」の中からある環境の下で、「教師」と言う仮面を意識的に被っているにすぎないのです。


教師であってミュージシャンと言う者は、どれも私と似たり寄ったりの自我を有しているでしょう。


したがい、私は、別段、取り立てて隠すほどの仮面は持っておりません。


(これは、仮面=ペルソナ 「PERSONA」が、「個性:パーソナリティ「PERSONALITY」の語源となっている考え方から出ています。「人間は同時に二つの仮面を被る事は、自我が崩壊するため不可能である、ゆえに彼は「教師」であって「男」とはなれない、とする岸田秀氏の理論の長年の検証でもあります。)

 

私は、徹底して、その作品と人間を切り離して物事を考えます。


「彼」、「彼女」は、その「作品」を創造する時間に置いてのみ「存在」したのです。


そうした「創造」を終えれば、そこには、もう「彼」「彼女」は存在しません。


しかし確かに、この作品は、彼、彼女から生まれたものに違いはありません。


その存在無くしては、確かにそうした「作品」も生まれません。


それは、彼、彼女自身の自我の奥に抑圧されていた創造主、あるいは破壊者でもあるからです。


こうした創造の主は、また破壊の主でもあります。(聖書の神を見よ!)


したがい、「教師」と「ミュージシャン」と言うものは本来、相反する世界の住人でもあります。


私は、よく、そんな練習をして何になるんだろう、と指摘します。


教師としては伝えなくてはいけない「技術」の一つであってもミュージシャン側として見れば、貴重な人生の時間をそんな誰も興味を持てない「技術」の習得に費やす者が「哀れ」に見えます。


労多くして実り少なし、と言う指摘です。


毎日、苦労してそれを完成して見ても誰もそれに興味を示さない、という練習の事です。


一生をかけて辞書を丸暗記して見せよう、と決意し実践した者が、ちょっとした問題にさえ明快に返答できないでいる未来の状況が「見える」からです。

その「修業」の先には、何もないよ、と指摘して上げるだけです。

なぜなら、その「技」を習得した者は、これこれこうなって最後にはああなったよ、という例証が多く提示できるからです。

この指摘は、しばしば、生徒自身が求める「願望」にもかかわらず、教師としての立場とミュージシャンとしての立場の違いから来る葛藤を生みます。

しかし、私は、躊躇(ちゅうちょ)なく、未来に発展性のある道、を選びます。


それは、生徒自身の浅はかな知識から来る「駄々っ子」的願望を無視した選択となります。


この場合の生徒とは、どうしても辞書を丸暗記するまでは、何も発言したくない、というような考えにとらわれているような者です。


その間に、彼、彼女の「創造脳」は退化して行きます。


日本語を習うには、まずNHKのアナウンサーが最適でしょう。


教師に求められているものは、「個性」ではなく、「無色透明」な知識をまず伝える事にある、と思います。


しかし、これもまず根本的な考え方の違いでしょう。


そのまま、個性のない生徒が大量に排出されているからです。


アーノルド.シュワルツネッガーからどうしても英語の発音を習いたい、と考える者もいるでしょう。


どうしても大阪弁を喋りたいと言う外人が存在するように、、。

 

いずれにせよ、すぐれた選手にはすぐれたコーチがいなくてはどうにもならない事もまたスポーツの世界では常識です。

しかし、すぐれた資質を持つ選手は、どんなスラム街からも誕生します。

ボクシング、K-1の世界では、既にそうした、「最高の環境で育った者のみがチャンピオンになる」、という「常識」さえも覆(くつがえ)しているではありませんか。


これは、あくまでも「すぐれた資質を持つ者」であって、一般には当然、適合しない事は言うまでもありません。


とにかく「あなた」ではない事は確かでしょう。


天才「モーツアルト」も数々の「師匠」が存在する、という「事実」も付記しておきましょう。

 

念のため。


尚、どうしても自分は「僻地(へきち)」に住んでいるために良い教師が近所に見あたらない、と言う者には、独習メソッドがある事はあります。

しかし、独習は、かなりの「忍耐」と「努力」が「教師」を持った者以上に必要です。


多少は金銭もかかりますが、大手の学校に支払う金額の10分の1ほどの金額ではないでしょうか。(大手は年間百万円ほど。独学はあらゆるテキストを購入しても10万円)


しかし、その「進化」には、かなりの「個人差」と「時間」が関わって来ます。

多少時間がかかっても仕方ない、金銭もそんな莫大(ばくだい)にはかけられない、と言う者はそうした道もあるでしょう。


なぜなら、私自身は、実は、ジャズに限定された学習に関してはほとんど「独習」です。(しかし、大変な内外の教則本マニアです。念のため)


アドリブの仕方、を習った事がありません。

 

(しかし、これを可能にしたのは、それを補うべき「実践」の場数があったからです。通常は、どちらか一方に偏(かたよ)っています。どちらも進化はありえません。「実践」はあるが「理論」がない、「理論」はあるが「実践」がない、です。またその「理論」も実にあやしげで、「実践」もいいかげんです。)


「師匠」もおりますが、それは別の面での修業事です。


大概は、そのまま大した進歩も見られないまま「還暦」となってしまう独習プレーヤーばかりですから彼等とは違う方法論を取らなければいけないでしょう。

私があなたへ「教える理由」があれば、教えない事もないですが、独習の労力は、大変ではあります。


私自身は、あまりに「高額」な月謝よりは、そちらを選びました。


高額、の基準は、とにかく金持ちにしか受けられない「教育」の事です。


いかに苦労して働いてもなかなか都合のつかないほどの金銭がかかる「勉学」の事を言います。


そんな事は、ありません。


やる気と「正しいメソッド」に従ってさえいれば、どこでも「教育」は受けられます。


しかし、若者が日夜働いて稼ぐ金額くらいの「身銭(みぜに)」を切って学ぶ「勉学」は常識の範囲内です。


高額な音楽教育産業(受験産業?)の犠牲となった若者もまた膨大な数です。


この事は、我が子を「スター」にするために金銭を惜しまなかった幼児教育の結末を見ても納得がいく事だと思います。


既に多くの例証があるはずです。


音楽教育産業の「餌食(えじき)」となったのです。


親子共々。


いくら金銭をかけてもダメな者はダメです。


これは、通う前から既にわかり切った事です。

 

一応、様々な環境にいる者に対して「平等」に述べておきます。

 

2002年、4月14日(日)午前2時30分

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