おすすめミュージシャン 5

13:ラルフ.タウナー (白人、アコースティック.ギター)


「オレゴン」と言うバンドで世に出た、という。何度かアルバムを耳にしたことがある。よく知らない。


しかし、彼とゲーリー.バートン(ビブラフォーンVib)とのデュオは絶品である。


ジャズにクラシカルな「匂い」を持ち込んだアドリブ.スタイルである。


しかし、全くのクラシカル.ギター出身ではこうならない。


その感性は、一体、どこから来るのか、今もって謎である。


推理すれば、北欧(ほくおう)に住む木こりの家の三男として生まれ、長い冬をアコースティック.ギターを弾いて過ごしたとしたら、こういうスタイルになるような気がする。


実際の環境は知らない。


ジャズを聴いてはこういうスタイルは生まれない。
大変、品性の高い育ちである、ということは確かである。

リッチー.バイラーク(ジャズ.ピアノ)と同じ「匂い」を持つギタリストであるが彼のように10年で100?キロは太ったりしないだろう。


「クラシックの要素」と言っているが私がこうしたギタリストに求めるのは唯唯(ただただ)「即興性」のみであり、私は本来のクラシカル.ミュージシャンに求められる「譜面の再現」とは区別している。

クラシカル.ミュージシャンとはその譜面再現のためへの解釈能力、そのための音色、音楽性、と言った様々な要素を競い合う世界に身を置く者たちである。

彼等ほど音色に対する神経が最重要課題でない事は、既にピックを持った演奏に表れている。ピック演奏ではそこまで音色を繊細に表現できない。

(ラルフ自身はピック演奏ではなく指によるアコ-スティック.ギターの演奏スタイルのようである)

しかし、彼等に求められているのはクラシカル.ミュージシャンとは区別された「即興性」である。

したがい、もしもピック演奏をする者で、あるいは指でもよいが、何ら音色にこだわる事なく編曲された譜面を再現するだけのバンド、あるいはミュージシャンを一切私は認めていない。

そこで評価の対象があるとしたらその「編曲者」である。けっして演奏者たちではない。

なぜなら、彼等に成り変わりその譜面を再現してくれる演奏家はいくらでもいるからである。


おそらくクラシカル.ギターを愛好する、早くて中学生あたりから音色無関心派の彼らに変わる者は存在するはずである。


ただ譜面を忠実に再現していればよいからである。

それほど「これは即興性が高いか、低いか」という問題は、アドリブ系音楽での評価の比重は大きいのである。


その例外があるとすれば、そう簡単に弾く事ができない、という高い演奏能力を要求される譜面の再現であろう。


(その逆に彼等は、再三言っているが、そう「簡単に弾く」事ができる曲に対しての音楽性は低い)

したがいクロード.チアリ(ポピュラー./映画音楽.ギタリスト)の希少価値は、その曲を彼自身が「作編曲した」と言う一点だけである。


それ以外には見当たらない。また、それで充分である。


とすれば彼は、ギタリストと言うよりも作曲家がついでに演奏も行なっている、という分類に属するのである。


彼以上に彼の譜面を再現するギタリストはクラシカル.ミュージックを目指す者にとっては容易であるからである。


クロード.チアリ自身のギター.アレンジによるポピュラー.ミュージックは全国津々浦々のホテル、レストランなどにて演奏されている。その曲集出版による印税はけっこうなものだろう、と予々(かねがね)羨(うらや)んでいる。


また、この手のジャンルの編曲ではシンプルかつ要領を得た物であるため私自身も重宝したものであるが、後年は、メロディとコードのみのシート.ミュージックのみで用を足し、次第に「無用」な曲集となった。

こうした、クラシック系のギタリストとは評価基準を全く異にする、「即興演奏」を追求するラルフ.タウナー自身の実物による演奏映像は今だ見た事がない。

2001.9/25 .Tues.


14:ウルフガング.ムースピール [Wolfgang Muthpiel] (白人、ジャズ.ギタリスト、バイオリニスト)



ジャズ改革派の若手(?)ナンバーワンである。

2001年現在、40歳手前くらいではないか。


パット.メセニーとジョン.スコフィールドが絶賛し推薦した、と言う広告文句ですぐにジャズ.スノッブの間でも広まった若手である。


オーストラリアかオーストリア出身かわからなくなった。


何度もニューヨークへ行っては田舎に帰っていたようである。どことなく親近感を感じる話しである。


実際、無名の頃、ポール.モチアンか何かのサイドメンとして来日したはずであるがさほどの客入りではなかった、と聞く。

このギタリストの面白さ(凄さではない)は、ハーモニー感覚である。


奇妙なハーモニー感からくる異質な心地よいアドリブ.フレーズは、バイオリンを媒体にクラシカル.ミュージックのエッセンスとジョン.スコフィールドをいきなり合体させて発展させてしまった感じである。


旧来のジャズ.ギタリストばかりを聴いていては、とてもたどり着けないスタイルである。


かえってじゃまになりとてもこういったスタイルは生まれない。


、、という話しをするが、彼には彼なりの「伝統」がある。


その彼なりの「伝統」がジャズの世界ではさほど重視されていなかった、というだけである。


伝統を知らない革新派、というわけではない。


これはジョン.コルトレーン(テナー.サックス)も同じである。


また作曲の才能にも恵まれ奇妙な作品を創作している。若手の中ではピカ一の感覚である。


多くのコピーマニアを生む事であろう。しかし彼の持つアドリブ理論は、基本的にジャズ.スノッブの手に終えるものではない。


恐らく、音楽に対する方法論は、アラン.ホールズワールズにもっとも近い考えであろうが、ムースピールの方がかなり伝統理論寄りである。


クラシカルな香りをジャズへ導入する、という点ではラルフ.タウナ-がいるが両者はまったく別な世界を形成している。


総合的な音楽構築能力と言う点ではビル.フリゼールがいるが、ウルフガング.ムースピールの方がシングル.ノート.アドリブと言う点ではジョン.スコフィールドに対峙(たいじ)する方法論を持っている点でビルより数段上である。

 

しかし、そのため、音楽全体の構築力という点では、ビルを超える事は困難であろう。


これは大作曲家の条件として演奏家に対しての羨望とコンプレックスがなくてはならない、という事実に依(よ)る。


ウルフガングはそのすべてを万遍(まんべん)なく満たしてしまっているからである。


そう簡単に「エリート」が天下を取るほど音楽の世界は甘くない。

 

彼は「エリート」の苦労人である。


2001.9/25 .Tues.



15:ジョン.マクラフリン(イギリス、白人、総合格闘ギタリスト)

 

超絶「正統早弾き」のギタリスト中、何時の時代においてもナンバーワン的存在である。


人間の取得する技巧というものは、大して進化していない。


何百年前も今も同じである。


進化したのは、それを計測する機械の類(たぐい)と、ひとつの価値観に絞って編み出される「技」の工夫くらいしかない。


運動能力においてさほど、現代の超人と変わらないどころか、それを上回っている節がある。


ただ単に、垂直にジャンプする、走る、といった点での身体能力は同じではないか。


あるのは改良された「技」の工夫である。


これは、誰も知らないプロレス技で勝つ事に同じである。


したがいマクラフリンの「正統早弾き」のスピードに関しても人類がそう簡単に何百年後も破れるものではない。


正統とは、一音一音をしっかりとピックで弾く奏法(オルタネイト奏法)の事である。


その対極にフランク.ギャンバレ(ヘビメタ.ジャズ.ギター)などのスウィープ(sweep).ピッキングがある。


(「お掃除(そうじ)奏法」と私は呼んでいる。弦をピックでなでるように弾いて一度に何音も「束(たば)ね弾(び)き」する。)


あれが大体、伝統的な奏法による速度の限界であろう。


フランク.ギャンバレのスウィープ.ピッキングと呼ばれる特殊な奏法での「早弾き」は、基本的な身体能力とは別にあり、人類の「技の改良」による進化であるから両者を比較しても意味がない。

 

これは正面飛びで相変わらず高跳びして見せる者と背面跳びでバーを越えて見せる者との違いによる。

 

ジョンが正面跳びでフランクが背面跳びである。


この高さがほぼ同じである、という事がジョンの身体能力の高さを物語っている。


また、彼の速弾きは仕損じる事がない正確無比なものであり、「アル.ディ.メオラ」(ギタリスト)と違い音楽的霊感に溢れたものであるからマンネリに落ち入る事がない。

 

常に、聴き手に緊張感を要求するスタイルである。


マイルス.デイビスが最も愛したギタリストである。


「言いたい事がたくさんあるのに中々上手く言えない男のように弾くんだ」というマイルスのアドバイス通りなぜか、どこかしら「訥々(とつとう)」とした早口である。

 

途切れるように語る饒舌(じょうぜつ)の妙(みょう)である。

 

それに引き換え「アル.ディ.メオラ」はその音楽に表れる通りのファンの民度である。

 

おそらく人間性が音楽にもファン層にも表れているのだろう。人生楽しきゃ文盲(もんもう)でもいいんじゃないの、といった感じである。


是非は問わない。


「スーパーギタートリオ.ライブ」「プロミス」、インド音楽に関わった「シャクティ」と言ったCDから聴き出すとわかりやすい。


いずれにせよ、マクラフリンの全貌を知る事ですべてのギタリストの音楽性は急速に拡がって行く事だろう。


これほど音楽的スタイルの変遷(へんせん)を見たギタリストはいない。


しかし、彼自身の語り口となるアドリブは、相変わらずである。


他の楽器の奏者がギタリストと比較して音楽性の幅が狭すぎるのは、他の楽器にジョン.マクラフリン的なミュージシャンがほとんどいないからである。


マイルス.デイビス(トランペット)を除(のぞ)いてである。


しかし、マクラフリンを信奉する者はジョン.アバークロンビーの良さも理解してもらいたいものではある。


あるいはB.Bキングでもかまわない。


猫も杓子(しゃくし)も早弾き合戦にならないためである。

 

ジョンは音楽的霊格が高いから聴けるのである。


それがなければ早弾きは、単なる曲芸の一つである。


私もけっこうに早く弾ける種族であるが、この頃、それをよく忘れてしまい、演奏後に「しまった!早弾きするのを忘れてた!」と気づく事が多い。


昔はマクラフリンのライバルはラリー.コイエル(コリエル)だと言われ、二人のバトルはアルバム「ファイセズ」で70年代に実現した。


その後は、スペインのフラメンコ.ギタリストのパコ.デ.ルシアとなり、アル.デ.メオラをこれに加え、「スーパー.ギタリスト.トリオ.ライブ」という「それゆけ、早弾き合戦」のようなアルバムを80年代に出した。

最近、NHKの深夜の「映像散歩」では、マクラフリンがビル.エバンスに捧げたアルバム プレイズ・ビル・エヴァンス の「ヴェリー.ア-リ-」や「ワルツ.フォア.デビ-」がよくかかっている。


長い音楽人生で彼はこの一枚においてようやく一般女性ファンに認識された事であろう。


これ以上は彼の事は語るまい。


たんなる嫉妬である。

 

2001.9/25

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